いつでも君想うよ

最近のわたしは以前よりも村上さんを心配することが少なくなった。村上さんを見ていて、切なくなることも減ったように思う。これまでその感情の引き金となっていた「自分にはなにもない」という村上さんの言葉。相変わらず村上さんはその言葉を口にするけれど、そんなことないよと必死になってなんとか村上さんのことを説得したかった、もっと自分のことを認めてあげてほしいと願ってやまなかったこれまでのわたしは、今はもうあまり顔を出さない。

 

わたしはがんばりやさんの村上さんのことが好きです。好き嫌いや得手不得手をこえて、かんばることをあきらめない村上さんのことが、誇らしくてたまらない。だけど村上さんの「なんでもがんばる」とか「とにかくやってみる」という行動の前にはいつも「あたえられたものを」とか「求められたものを」という少し受け身な前置きがつく。最近は、そんな村上さんに引っかかりながらも、それでもわたしはどこかで納得していた。まわりとくらべてなにも持っていなかった、なにができるわけでもなかった自分が、こんなにも途方もない場所にきてしまった。きっとやりがいや達成感だけじゃない、不思議でおそろしいようなその感覚が、あたえられた場所で求められることにこたえる、という村上さんの姿勢に、村上さんなりの前向きな意味を持たせているのかな、と思う。

 

そして「自分は器用じゃないから、いろんな自分をその都度履き替えるような勝負はできない」という村上さん。わたしはそれが村上さんの言う「なにもできない」ことのひとつだとは思わない。裏も表もない、ただひとつの「村上信五」の顔を貫き通す・・・その顔を求められていることが「なにもできない」村上さんの自信と誇りに繋がっていてほしいと、願ってやまない。

 

 

いつもありがとう。今年もよろしくお願いします。

いつも光の中に立っていてね。

その光がやわらかであたたかなものでありますようにと、わたしはやっぱり、願ってやまない。