ロマンチスト・エゴイスト

最近ぽろぽろと目にすることが多かったのでいわゆる「熱愛報道」について腰を据えて考えてみる。腰を据える、とは言うもののしょせんわたしはロマンチスト・エゴイストな物語と思い入れを大事にするタイプのオタクなので地に足がつかないうわついた語りになることは容易に想像がつく。ちなみにロマンチスト・エゴイストとはポルノグラフィティさんの楽曲のタイトルをいただいていますが特別な因果関係はありません。ポルノグラフィティさんのロマンチスト・エゴイストはとてもとてもよい曲です。

 

「本気愛」の解釈には人それぞれあるだろうけど、わたしにとっては「担当」みたいなものでこの界隈の便利な共通言語に過ぎないのでその言葉を使うことに何の拒否も嫌悪感もないという前置きをしておく。わたしはいわゆる「本気愛」ではないと、自分なりの解釈の中ではそういうことになると、そう思っている。そんな「本気愛ではない」わたしも、その報道にはざわついた。そもそもファンをしていて平常心でいられていることのほうが少ないわたしだけど、そのときはだいぶ平常心からは逸脱した精神状態を実感した。すでに平生が平常ではないわたしが平生を逸脱するというのは、声をあげて髪をかき乱して取り乱すようなことこそなかったけれど、それでもからだの奥からこみ上げるような感情の渦は確かにあった。その渦は不安であり焦燥でもあるもので、次第に恐怖にも変わった。どれをとっても引っこ抜いたとて根の見えない感情ばかりで、それこそが自分の今の答えだと思った。そんな感情の渦は様々な進路をたどって、寄り道したり行き止まったりしながら最終的にはすべて「この出来事のせいで気持ちが翳ってファンをやめることになったら」という絶望に帰結した。ファンのままでいるもいないも、やめるもやめないも自分の気持ち次第でどうしたっていいはず、またはどうにでもなるはずなのに、わたしにはそれをどうすることもできない。気持ちひとつでファンをやめたっていい、などという潔さはもちろんない。あってはならないと言っても過言ではない。

 

もしもその個人のファンをやめることになったとして、同じグループの誰かに変えて思いを寄せることは現時点ではありえない。わたしは村上担だけど、村上さんのことを今の熱量のまま応援することをやめるなら、次はもうないと思っている。きれいさっぱりオタ卒しようと思っている。ほかのグループへの鞍替えなんて考えられない。ジャニーズであればなんでもいいわけでも、ジャニーズを追いかけられればそれでいいわけでもない。わたしは関ジャニ∞以外のものにこの熱を注ぐ気は、少なくとも同事務所内ではまったくない。わたしにとってわたしの生活から関ジャニ∞がなくなることは、その時点で少なくともひとつの人生が終わることだ。大きなことを言うようだけど、決して大げさなことではない。

 

「そんなことでやめられるなら」という「もしも」には理由がある。明確な理由さえあれば、あとはそのときを待つのみで、案外落ち着いた日々を送ることができるのかもしれない。だけどそうじゃない。理由になりそうなことはいくつかあるけど、そのどれもが現実味を帯びていない。ありえそうな理由のすべてに「そのときはファンをやめるかもしれない」と付け足してみたところで、絶対、ということにはならない。自分が考えうる「繋がりそうなルート」をいくらたどってみたってそれは結局のところ事が起こってみないとわからない可能性でしかない。

 

熱愛とか、結婚とか。そういうことになったとき、わたしはファンをやめるかもしれない。だけどやめないかもしれない。想像するしかないけど、やめないだろうなとも思う。結局なにか理由をつけてファンを続けそうな気がする。というわけで、というかどういうわけだという感じですが、わたしは関ジャニ∞のファンをやめたくないし村上さんのことも応援し続けたいけどリアルな熱愛報道や結婚報道があったとして、恋愛感情で追いかけているわけではないにしろどうしてもそれによって多少は気持ちに翳りが出そうなので、そういう報道が嫌というよりはそういう報道によって自分の気持ちが揺れて人生がひっくり返るようなことが起こるかもしれない可能性が怖い、というのがわたしの見解です。むりやり結論っぽくしたけどぶっちゃけよくわからないし、まず最初に直通する感情は結局どうせ「イヤ!」なんだけど、まぁよかろう。自分勝手でもいいでしょう。こんなにも思いを募らせて人生ふっかけてることがそもそもとんでもない自分勝手なのだから。