ロッテルダム国際映画祭を通して

ソロライブが始まりましたね。ソロCDの発売や映画の公開まで1ヶ月を切りました。ロッテルダムでの映画祭も映画の評判とともに大盛況だったようでなによりです。お疲れ様でした。おかえりなさい。ピアノマン、見ました。正確には、異国の地で歌う渋谷すばるの姿を。


すばるくんがひとりで音楽の絡んだ仕事をするたびに不安になるわたしですが、今回も・・・というには、今回のことはこれまでとは明らかに質が違っていました。今までの方がもっと、すばるくんの気持ちごと、そのまますべてすばるくんを関ジャニ∞じゃない場所へ連れて行ってしまうのではないかという不安は強かった。そちらの方がすばるくんの意志がともなっているであろう部分に、あせりを感じていた。関ジャニ∞じゃないものに興味を持ってしまったすばるくんがこわかった。そんなすばるくんを引き止める力が当時の関ジャニ∞にはない気がしていて、そんなすばるくんを関ジャニ∞に繋ぎとめることができても、やっぱり視線は合わないようで、すばるくんが「いる」だけでは安心できなかった。それは昔の話で、今はもうすばるくんの気持ちが迷いなく関ジャニ∞に向いていることがわかるので、そういう心配はない。けど、言い方は悪いけど以前のそんな心配なんて、結局は井の中の蛙状態で、関ジャニ∞かよそのバンドか、とかアイドルという呼び名への葛藤とか。そんなものは通過点でしかなくて、狭い世界の中の小さな暗闇に過ぎなかったのだと、今では思う。

異国の地で歌うすばるくんの姿は、今まで何度も目にしてきたすばるくんではないようだった。顔と声だけを知っている、誰か別の、知らない人のようだった・・・と、思い込みたかったのかもしれない。知らない人だと思いたかった。こんなにすごい人を「知っている」ことが信じられなかった。この「渋谷すばる」が、わたしの愛してやまない関ジャニ∞のボーカルであることを、誇りに思うよりも、ただただおそろしかった。そして異国の、無名に近い環境であっても、歌というこれ以上ない武器を使って同じように観客を沸かせる渋谷すばる関ジャニ∞の、とは言うけれど、あの場で、ファーストインプレッションの衝撃で、アウェーの地で、あの賞賛を与えられたのは「関ジャニ∞渋谷すばる」ではなかった。「渋谷すばるという日本人」に送られたものだった。やっと関ジャニ∞に夢中になって、真剣に向き合ってくれるようになったすばるくんへの不安がようやくなくなっていたところに、それとは別の、もっと途方もなく、抗いようのないくらい大きな渦に巻き込まれて、すばるくんの意思とは別の強大な力によって、すばるくんがどこか遠くへ、関ジャニ∞じゃない場所へ連れて行かれてしまうような感覚に陥ってしまって、怖かった。もう大丈夫だと思ったのに。映画もソロCDもソロライブもはじめこそ性懲りも無くおなじみの感情に負けそうになったけど、それもそのたびにすばるくんの重すぎずぞんざいにもしない語り口で、納得してきたのに。それほど、本人の本物の言葉をもってしても、あのすばるくんには力があった。何者をも引き込む説得力があった。惹かれずにはいられない。この10年、関ジャニ∞を通してすばるくんを見てきたわたしは、それはもう簡単にすばるくんに惚れ直した。やはり渋谷すばるは間違いない。だからこそ、誰もが手を伸ばさずにはいられない存在感に、その引力が怖かった。連れて行かないで。すばるくんはやっと、やっと関ジャニ∞のものになったんだから。

回り続ける歯車の上で、走り続けなければ巻き込まれてしまう。潰されてしまう。関ジャニ∞は、本当に自分たちがこころの底からやりたいと思えることを、まっすぐに、迷いなく実行できるグループなのか。やりたくないことをはっきりと「やりたくない」と言えるのか。誰かが立ち止まりたい時、立ち止まる必要のある時、その歯車を止めることはゆるされるのか。

思いもよらないところから攻められて、まったく防御が効かなくて困ります。弱点だらけでまいってしまう。わたしは、自分の夢を作る前に、他人の人生に夢を見てしまった。赤の他人である関ジャニ∞に夢を託してしまった。だから、わたしの人生が思い通りにいかないのは当たり前のこと。このまま、縛られたまま。切れそうで切れない運命の糸が少しでも長く、丈夫であるように、必死になって紡ぐだけ。何を言ったって、どうしたって無駄なのです。結局わたしは関ジャニ∞の意のまま、向かうまま、渦巻く流れに身を任せるまま。

すばるくん、おかえりなさい。ぶじでよかった。楽しかったようで、本当によかった。もう何も後ろめたいことなんてないんだから、安心して歌ってね。お疲れさまでした。